タケゴラ

鹿島アントラーズのことを書いています

カテゴリ:コラム > 人物


 2015年4月1日、筆者が三竿健斗を初めて観たのは雨ですっかり花冷えしていた味の素フィールド西が丘だった。その年の開幕戦で高卒ルーキーながらスタメンデビューを飾り、ピッチ上ではC大阪に所属していたフォルランに話しかけたという男の話はサッカーファンである自分の耳にも当然入っていたし、それゆえ注目していた部分も少なからずあった。そこでの三竿健は、なるほど確かにJ2でレギュラーを張れるだけの実力はあると思わせる選手だった。元々運動量が多く、かといって闇雲に走り回ってる訳でもない、展開を変えるようなサイドチェンジのボールも何本か通していた。ただ、全体的に粗削りな印象は否めなかった。ボールを奪いに行くまではいいがあっさりかわされる場面も少なくなかったし、リスクを負った縦パスはパスミスになることが多かったからだ。

 ただ、彼に驚かされたのはシーズンが経つにつれて東京Vの試合に足を運ぶ度に、確かな成長ぶりをピッチから感じ取ることが出来たからだ。チームのために誰よりも走ってスペースを埋めるのはもちろん、ボールを奪い取る場面やパスが通るシーンは目に見えて増え、すっかり東京Vの中盤で守備のフィルター役として欠かせない存在になっていた。この年、東京Vが最終節まで昇格プレーオフ進出争いを続けられたのも、彼がいなかった翌年は残留争いに巻き込まれてしまったのも、彼がいるいないという部分で左右されたのは大きかったのではないかと思う。

 しかし、そんな三竿健も鹿島に入団して1年半は苦悩の時間が続くことになる。チームのボランチには小笠原、柴崎、永木、レオ・シルバとリーグでもトップクラスの選手がずらりと並んでいた。ボランチにビルドアップの根幹を担わせる石井監督の方針や攻守において貢献度の高い彼らの存在もあって、三竿健はピッチに立てば自分の持ち味を見せ、決して悪くないプレーぶりだったものの、ピッチに立つ機会は限られ、それどころかベンチに入れる機会すら限られていた。

 三竿健に転機が訪れたのは監督交代によって大岩監督が就任したことだった。監督交代後の初戦、ピッチには背番号20を纏った男の姿があった。ここで勝利に貢献すると、彼の広い守備範囲や高さ、的確にスペースを埋められるスタイルに目をつけた大岩監督は、三竿健を出場停止を除いたリーグ戦全試合において代えることなくピッチに立たせ続けた。鹿島に来て2年目である今季の最初の半年に懸けていた三竿健にとっては、まさに監督交代という機会をチャンスに変えたと言っていいだろう。

 そして、12月にはついに日本代表に初招集された。彼のシンデレラストーリーはまだ留まるところを知らない。そう思っていたが、待っていたのは厳しい現実だった。E-1の3試合で出場は韓国戦の途中出場1試合のみ。その試合も1-3と差を広げられてからの出場であり、結果としてチームも大敗と何ともほろ苦いデビュー戦となってしまった。たしかに、練習を見る限り彼はまだ代表のレベルに適応できていないようだった。ボールを奪いに行けると思って奪いに行っても奪えない、普段ならたとえミスしても自分で取り返せるがこのレベルはそのミスをゴールに繋げてしまう、まだ彼が世界のレベルでやっていくには足りないところがまだまだあったということだろう。

 それでも、三竿健斗が下を向くことはないだろう。彼は常に前を見続け、吸収したことを確実に自分のモノにしていく力がある。来季も鹿島のピッチではそんな彼の姿を観ることが出来そうだ。


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「夢を追わない姿、勝利を追わない姿は見せたくない」

 上の題字の言葉は、柴崎がCWC決勝のレアル・マドリード戦の前日の公式会見で残したコメントだ。そして、実際に彼は横浜国のピッチでそのコメント通りの姿を我々に見せてくれた。ただ、彼にとってそうしたことは常に当たり前のこととして存在していたのだろう。これまでの鹿島に在籍した6年間、彼は常に高みを見据え続ける求道者のようだった。

 柴崎はプロ入り当初から意識の高さはすでに高いところにあった。高校2年生の段階で鹿島入りを決断。加入前年の宮崎キャンプから参加し、プロのレベルを肌で感じ、自身のレベルアップに繋げようとしていた。その姿勢はプロに入ってからも変わらない。プロ1年目の開幕当初は彼にとって初めてとも言える「試合に出られない時期」が続いたが、それでもこの時期にしっかりとプロで戦える身体づくりに着手。夏前には出場機会を増やし、小笠原満男、増田誓志、本田拓也、青木剛といった日本代表経験もある名だたるボランチ陣に割って入り、レギュラーの一角として存在感を放つようになり、チームのナビスコ杯優勝にも大きく貢献した。

 その成長曲線の右肩上がりっぷりが止まることはなかった。主力の一角に成長した2年目の2012シーズンではシーズンを通してレギュラーとして活躍をつづけ、ナビスコ杯では決勝での2ゴールでMVPを獲得。チームの連覇に貢献した。その翌シーズン、翌々シーズンも活躍を続け、2014年にはついに日本代表に招集。そのデビュー戦でゴールを奪う鮮烈な活躍を残し、リーグではベストイレブンに選出されるなど、その活躍の度合いはもはや鹿島アントラーズというチームに留まらず、日本サッカー全体に広まるようになっていった。

 ただ、そんな彼の成長曲線が必ずしもチームと噛み合っていたわけではなかった。成長を続ける柴崎を中心としたチーム作りを行っていた鹿島というチーム内で、柴崎にかかる負担は増し続けていった。そうした中でも、柴崎はそうした負担に向き合いつつ、ただストイックに自らの成長を追い求めていったのだが、そうした彼の成長に周りがついていけないこともあった。そうなると、ますます柴崎の依存度は高まっていく。チーム事情もあり、柴崎のプレーに輝きはあっても、チームとしての輝きが失われた試合が多くなっていった。

 そうした中でチームは石井正忠への監督交代を決断。チームとしてベースが再び整理されたことにより、チームも柴崎も一層輝きが増すかに思われた。ただ、この頃から柴崎は調子を落とし始める。これまで通りの輝きを見せてくれるはずの試合もある反面、輝きを失った試合も増え始めパフォーマンスに波が生まれるようになったのである。こうしたこともあって、柴崎は日本代表からも遠ざかるようになり、目標だった海外挑戦もオファーが届かず実現しなかった。

 そして迎えた昨季。一念発起して迎えたシーズンのはずだったが、柴崎に待っていたのは度重なる離脱だった。開幕前に虫垂炎を患い、なんとか開幕には間に合わせたもののなかなかコンディションが上がらず、さらに夏場から秋口にかけてもケガで離脱を繰り返し、決してフル稼働できたとは言えず、出場した試合でも貢献度の高さこそ光るものの、やはりパフォーマンスの波が消えることはなかった。チームは7年ぶりのリーグ優勝を果たしたものの、過去獲得してきたタイトルに比べると柴崎自身の貢献度はずいぶんと控えめなものだった。

 それでも柴崎はそれでは終わらなかった。2016年12月18日、横浜国際総合競技場のピッチには光を放つ柴崎の姿があった。それも、欧州王者であるレアル・マドリードを相手にして。前半終了間際、PA内でこぼれ球を拾った柴崎はワンタッチでDFをかわすと、そのまま流れるように左足でシュート。ボールはGKのケイラー・ナバスの手をすり抜けゴールに吸い込まれ、その瞬間スタジアムは間違いなく歓喜と驚きに揺れた。それだけではない。後半にはパスを受けると、またも左足のシュートが針の穴を通すかの如くゴールネットに吸い込まれた。結局、チームは敗れ準優勝に終わったが、柴崎は自身の存在価値は間違いなくこの日、世界に示したのであった。

 この活躍が柴崎を次のステージへと動かした。二転三転した移籍話は、スペイン2部のテネリフェへの移籍で落ち着いたようだ。無理もない。1年以上日本代表からも遠ざかっており、このところの個人の実績もあのCWCの活躍以外にインパクトのあるものは残せていない。目標である欧州挑戦を果たしたとはいえ、スタートラインは限りなく後ろの方だ。それでも、柴崎は歩みを止めずに走り続けるだろう。冒頭のコメントはレアル・マドリードを相手に限ったものではない。あのコメントこそが、柴崎岳の人生そのものなのだから。


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・一つの目標

 永木亮太はある一つの目標を立てていた、そしてそれを先日達成した。それは「日本代表のユニフォームを着る」こと。彼はそのために環境を変え、自ら厳しい争いに身を投じた。そして今、彼はさらなる高き目標に目を向けている。それを考えれば、彼がカシマでサムライブルーのユニフォームを着てピッチを駆けたことは、ただスタートラインに立っただけに過ぎないのだろう。さらなる高みへ、永木亮太は走り続ける。

・初めての移籍

 
サッカー選手にとって、移籍というのはリスクの多い出来事だ。環境、コーチングスタッフ、チームメイトの変化、チーム戦術への適応、周囲からの大きな期待、それら全てに向き合っていかなくてはならない。ましてや初めてなら尚更だ。そう考えれば、永木が今の立ち位置に辿り着くまでの道はどれだけ困難だったのだろうか。

 永木亮太は今季、特別指定選手時代も含めれば6年間過ごした湘南ベルマーレから鹿島に移籍してきた。湘南ではルーキーイヤーから主力を担い、長らくキャプテンも務めてきた。文字通りの「即戦力」であった。それだけに、サポーターの間でも期待度は高かった。だが、彼はシーズン前のキャンプで負傷。チームに馴染む大事な期間を棒に振ってしまい、結果大きく出遅れてしまったのである。

 それでも、出番はすぐにやってきた。カシマスタジアムで行われたリーグ戦の1st第2節である鳥栖戦、後半途中からの出場で彼は初めて真紅のユニフォームに身を通し、ピッチに立った。だが、それはあくまでスタートに過ぎなかった。鹿島で永木が務めるボランチには百戦錬磨の小笠原満男と、No.10を背負いチームの大黒柱にまで成長した柴崎岳が君臨していた。当時の永木の状態では、Jリーグでもトップクラスのボランチコンビに割って入るのはあまりにも厳しかった。それでも1stステージから永木はコンスタントに出場機会を得るが、ほとんどが途中出場で、先発はわずか2試合に限られ、その2試合も連戦と小笠原の出場停止というエクスキューズがあってのものだった。

・名乗り


 だが、2ndステージに入って状況は変わりだす。永木がチームにフィットしてきたのと、チームが調子を落としだしたのが重なり、永木の出場時間は試合ごとに増えていった。先発出場の機会も1stステージの2試合から2ndステージは9試合にまで増加。攻撃の組み立てでは小笠原や柴崎に劣るものの、自身の持ち味である運動量とボール奪取力の高さを、ひとたびピッチに立てば見せていくことで、小笠原や柴崎をベンチに置いて、永木が先発することも珍しくなくなっていった。さらに、2ndステージに入ってからは永木の左腕には湘南時代に当たり前のように巻かれていたキャプテンマークが巻かれるようになっていた。鹿島で移籍1年目の選手がキャプテンマークを巻くのは極めて異例のことである。それほど、永木に対するチームの信頼度は増していたのだ。

 そんな活躍ぶりがハリルホジッチの目に止まり、永木は10月の2試合を前に、ついに目標であった日本代表に招集された。ボランチのライバルは多いながらも「ずっと追跡してきた」というハリルホジッチのコメントからも、彼に対する期待ぶりが伺える。そして、11月11日、親善試合のオマーン戦でついに彼は日の丸を背負ってピッチに立った。先発のチャンスで十二分に能力を発揮したとは言い難かったが、それでもこの一歩が彼にとっては何より大きな一歩であることは間違いないだろう。鹿島に加入した時のように、永木はここからのし上がっていく。
 
・ウイニングメーカー

 
永木の湘南時代のキャッチフレーズに「湘勝輝点」というものがある。読みは「ウイニングメーカー」。この名の通り、彼はどんな試合でも勝利に向けて走り続けている。そして、それは来るCSでも変わらないだろう。まして、準決勝の相手は永木が育成年代を過ごした川崎Fである。燃えないはずはない。永木が等々力のピッチで走り、輝く時、それは鹿島に「勝利」の2文字が近づいている時だ。


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