style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-2945558394145007"
data-ad-slot="3719589573"
data-ad-format="auto">



・一つの目標

 永木亮太はある一つの目標を立てていた、そしてそれを先日達成した。それは「日本代表のユニフォームを着る」こと。彼はそのために環境を変え、自ら厳しい争いに身を投じた。そして今、彼はさらなる高き目標に目を向けている。それを考えれば、彼がカシマでサムライブルーのユニフォームを着てピッチを駆けたことは、ただスタートラインに立っただけに過ぎないのだろう。さらなる高みへ、永木亮太は走り続ける。

・初めての移籍

 
サッカー選手にとって、移籍というのはリスクの多い出来事だ。環境、コーチングスタッフ、チームメイトの変化、チーム戦術への適応、周囲からの大きな期待、それら全てに向き合っていかなくてはならない。ましてや初めてなら尚更だ。そう考えれば、永木が今の立ち位置に辿り着くまでの道はどれだけ困難だったのだろうか。

 永木亮太は今季、特別指定選手時代も含めれば6年間過ごした湘南ベルマーレから鹿島に移籍してきた。湘南ではルーキーイヤーから主力を担い、長らくキャプテンも務めてきた。文字通りの「即戦力」であった。それだけに、サポーターの間でも期待度は高かった。だが、彼はシーズン前のキャンプで負傷。チームに馴染む大事な期間を棒に振ってしまい、結果大きく出遅れてしまったのである。

 それでも、出番はすぐにやってきた。カシマスタジアムで行われたリーグ戦の1st第2節である鳥栖戦、後半途中からの出場で彼は初めて真紅のユニフォームに身を通し、ピッチに立った。だが、それはあくまでスタートに過ぎなかった。鹿島で永木が務めるボランチには百戦錬磨の小笠原満男と、No.10を背負いチームの大黒柱にまで成長した柴崎岳が君臨していた。当時の永木の状態では、Jリーグでもトップクラスのボランチコンビに割って入るのはあまりにも厳しかった。それでも1stステージから永木はコンスタントに出場機会を得るが、ほとんどが途中出場で、先発はわずか2試合に限られ、その2試合も連戦と小笠原の出場停止というエクスキューズがあってのものだった。

・名乗り


 だが、2ndステージに入って状況は変わりだす。永木がチームにフィットしてきたのと、チームが調子を落としだしたのが重なり、永木の出場時間は試合ごとに増えていった。先発出場の機会も1stステージの2試合から2ndステージは9試合にまで増加。攻撃の組み立てでは小笠原や柴崎に劣るものの、自身の持ち味である運動量とボール奪取力の高さを、ひとたびピッチに立てば見せていくことで、小笠原や柴崎をベンチに置いて、永木が先発することも珍しくなくなっていった。さらに、2ndステージに入ってからは永木の左腕には湘南時代に当たり前のように巻かれていたキャプテンマークが巻かれるようになっていた。鹿島で移籍1年目の選手がキャプテンマークを巻くのは極めて異例のことである。それほど、永木に対するチームの信頼度は増していたのだ。

 そんな活躍ぶりがハリルホジッチの目に止まり、永木は10月の2試合を前に、ついに目標であった日本代表に招集された。ボランチのライバルは多いながらも「ずっと追跡してきた」というハリルホジッチのコメントからも、彼に対する期待ぶりが伺える。そして、11月11日、親善試合のオマーン戦でついに彼は日の丸を背負ってピッチに立った。先発のチャンスで十二分に能力を発揮したとは言い難かったが、それでもこの一歩が彼にとっては何より大きな一歩であることは間違いないだろう。鹿島に加入した時のように、永木はここからのし上がっていく。
 
・ウイニングメーカー

 
永木の湘南時代のキャッチフレーズに「湘勝輝点」というものがある。読みは「ウイニングメーカー」。この名の通り、彼はどんな試合でも勝利に向けて走り続けている。そして、それは来るCSでも変わらないだろう。まして、準決勝の相手は永木が育成年代を過ごした川崎Fである。燃えないはずはない。永木が等々力のピッチで走り、輝く時、それは鹿島に「勝利」の2文字が近づいている時だ。


にほんブログ村


鹿島アントラーズ ブログランキングへ





style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-2945558394145007"
data-ad-slot="3719589573"
data-ad-format="auto">